いつか父となる子へ捧げる言葉 (1)
8月 31, 2006
いつか愛する人とめぐり合いそして母親として子を育てることを夢見るこどもと、父親としてこどもたちの成長を見守ることを夢見るこども。
父親、あるいは母親としての自分をこどもの頃に想像するませたガキって最近いるのだろうか。
どんな夢なのか知ることはできないけれど、目一杯その夢を胸の奥のスケッチにひろげながら、真っ白な心のキャンバスでどんどん描きすすみ、あとを振り向くこともなくただ前に目を向け無心にそして精一杯生きているこどもたちの20年後、30年後を想ったフィクション、ノンフィクションとりまぜた文章を書いてみようと思う。
そう思いながら、こうして日本語で書くというのは、こどもたちにとって一生かかっても解けないなぞなぞに終わり、ついには彼らがこの文章を読むことがないかも知れない。
若い頃、結婚や家庭に、まぶしいあこがれをもっていたかというと、たぶん誰かに恋焦がれてみたい、一途に愛せるひとと出会うことがあればという想いはあったけれど、家庭や結婚にはさほど頓着していなかった、と思う。
育った家庭が不幸な環境だったからでもなく、家族の愛情をほの温かくくすぐったいものとして感じたことがなかったというわけではない。ひとりぐらしをはじめて、社会で生きていく中で知り合ったひとたちの家庭の様子と比べると、理想的な家族、家庭環境に育ったと思う。
ただ、父をサポートしたてることで家族のガタイをしっかり支えていた母という姿は、家族愛の大切なものとしての存在ではあったけれど、そこに仲睦まじい夫婦だったというふうにはみえなかった。
ドラマでみるような、仲のよい夫婦の会話というものを聞く機会はなかったから、具体的にどんな夫婦仲だったということを思い出して書くことができない。それだけの話であったりもする。
では、仲がよくなかったのか? 仲がいいんだという会話は記憶にないけれど、何度か印象に残っているのは、父と母が満面の笑みを互いに浮かべたシーン。
そもそも、誰かが誰かを愛して家族をもったというケースが少なかったような時代と場所を生きた両親だから、家族というのは愛情の証というよりも生きた証だったのかと思ったりしたんだろうか。
ざっと夫婦として家庭を築いていった半世紀。
両親が何を思い、考え、望んだのか、申し訳ないけれどほとんど考えたことってなかったと思う。
子にそう考えたり、思ったりしてもらえないのは、不幸か?
いま親として思うに、そんなことはない。
もし、そういった親への気遣いがあればあったで嬉しいけれど、そうあって欲しいと親の望む優先順位でみるとそれほど重要ではない。
求められるほどには求めないほうがいい、らしい。
こどもたちの母親である、ボクの伴侶。
死ぬほどに恋焦がれたから結婚した相手か?
謝ることはないけれど、そうした思いつめた気持や恋愛パワーで一緒になったわけではない。
何かに妥協して結婚したのか?
そういうことではないと、断じて言える。何キロの愛情がなければ結婚してはいけないという定めがあるわけでもなく、トン級の愛情を抱えて結婚した夫婦でも儚い、淡いそしてもろい愛情だったなら何トン、何万トンあろうと無意味。
それよりも、たとえ一握り、ひとつかみの愛情と、その愛情が育つのに余裕たっぷりの愛情の鉢があれば、いい。
愛情の鉢も、時間とともにときにはひびがはいったり、落したり、あるいは誰かに踏まれたりすることもある。
そんなとき、大切な鉢だと両手でひびをさすり、割れた部分を直そうという愛情のソースがあるかないかで、半世紀ちかく家族、家庭を育むことが続けられるかどうかも決まるんじゃないだろうか。
ひびがはいっても、割れても、決して捨ててはいけない愛情の鉢。
そんな鉢を心のテラスにおくことにした相手である、ボクのこどもらの母。日本人じゃない。 アジア系でもない。
彼女と結婚する以前から、結婚するのは日本人がいいとか、日本人じゃなきゃいけないと考えていたかというと、そのへんはやけにややこしい。
ひとことで言うと、日本人かどうかにこだわっているのは、ボクよりも彼女だ、という変てこな話。
コミュニケーションを考えると、意思の疎通でことばだけじゃないから、日本人どうしならまず問題なかろうというのは、「便利さ」一番な考え方だと思ったりもする。必要も必然もないところで、突然日本人じゃないひとと一緒に家庭をもつ、あるいはつきあうということは考えないから、普通はまったく別世界でのお話。
ボクの場合は、必要や必然というものがあったかというと、必ずしもそうではなかった。 もっと簡単に考えみれば、結婚したのは相手が日本人だったから、という人はほとんどいないだろう。この人だったから、そのひと言ですませることができる場合が多い。
その次か、次の次くらいに、生れも育ちも日本人じゃないです、っていう補足部分が、相手の特徴を説明として追加はできる。
親から離れて暮らしはじめて、いろいろな人と知り合って、そしてそれ以上にそのひとたちが一部になっている社会をみてきた。そうした社会にひとり首つっこんだとっかかりの頃というのは、めまぐるしく変化していくまわりの環境に置かれるごとに、時には、この人と一緒に家庭をもちたいとかもあった。
ちょっと話がずれるけれど、国際結婚っていう風にかしこまったり改まって結婚ということを考えたことはなかった。社交辞令的な挨拶では便利なひとことではあるけれど、友人どうしのつきあいでは、とりたてて国際結婚だということで特別な意味ももたなければ、洒落にも話題にもならない。
やはり、誰それという名前で相手の説明がはじまる。
異国人どうし、異文化育ちどうしが際立っていくのは、不思議なもので、自慢したい時と愚痴る時のようだ。
だから、ボクら夫婦も口論になると、そんな文句言うならどうして日本人と結婚しなかったんだ、私は日本人じゃない、といったセリフが彼女からでてくる。
そうした口論を耳にするこどもたちは、何を思うんだろうか。
だって、彼らには半分は日本人の血が流れているわけだから。
ここまで書いて、当人として考え思うことと、こどもらに対して思ってしまうことが、実はとんでもなく矛盾しているときがあったりもする。
こどもらのクラス全員でとった記念撮影写真とかをみながら、彼女が一番の友達らしいとか言って、指差す少女をみて、すっかり白人だったりすると、どうして日本人ないしはアジア系の友達と仲良くないんだろう?と変なことをまったく他人的に考えてしまうこともある。
ふと、孫とかひ孫の代になると、日本人らしい顔立ちとか残らなくなるんだろうか? そう思うと、そうなるかも知れないきっかけになった当人のくせして寂しさを感じたりもする。
愛情の鉢の丈夫さでは、こどもたちの母親である彼女が最初で最後の人になると思うけれど、その彼女と落ち着くまでにボクを翻弄させた人がひとりいた。
まだ20代の頃、あるイベントで知り合った人。これまでの人生で2回だけ、この世にこんな美しい人がいるんだと思ったことがある。
一度は、サンフランシスコでみかけた黒髪の人。声をかけるとか、そういうことしそうにない一見品行方正よろしき青年だったけれど、おもむろにガイドブックをバックからだして、彼女に道をたずねていた。
道をたずねることなんかは、もともと目的ではなかったけれど、「なんでしょう?」って言って振り向いたときの笑顔は、警察の「フリーズ」なんかよりも効果あった。数秒、言葉続かず彼女の笑顔にみとれてしまった。 普通、そんなリアクションすれば、怪訝な顔して去られてしまうのがオチだけれど、彼女は違った。こちらの硬直した姿をみて、振り返りざまの笑顔がさらに輝きを増すという神々しさ。
ほんの数分の出来事だったけれど、友達も一緒にいたせいもあって、電話番号や住所まで聞いてしまった。一体どこへいく道をたずねたんだ!
残念ながら、彼女はサンフランシスコの人だったから、さすがに何がなんでも再会したいという根性まではでてこず、それっきり。
もう一度だけ、後光でもさしているのかという心地よいショックを受けた出会いが、さっき書いたイベントの人。
この人の時は、道をたずねるシチュエーションでもなく、どんな言い訳をつくっても、声をかけるためのまともそうな理由がなかった。
たぶん、それまでの人生の中でもっとも緊張した。でも、いま声をかけないと二度と会えないぞというもうひとりの自分のいやみなプレッシャーのおかげで、なんて話しかけるなんていうセリフもないくせに、気がついたら彼女の前につったっていた。
彼女も、そんな冷凍庫からだしたばっかの冷凍食品か?ってなこちらの様子を怪訝な顔もせず、「こんにちは」って話しかけてきてくれた。
英会話テープの聞きだすと学習意欲よりも眠気を誘われて、いつも同じフレーズからテープが回りだすのと違って、もう、その「こんにちは」だけ永遠に聴き続けていたい。そんな「こんにちは」だった。
というか、その「こんにちは」以外の会話はあまりよく覚えていない。
でも、しっかり彼女とアドレス交換していた。
このイベントの彼女へ、その後一度手紙を書いた。アドレス交換したあと気づいたのが、電話番号聞き忘れていたので、仕方なく手紙にしたのだった。
手紙を投函したあと数週間は返事くるかなと毎日ポストをのぞく日が続いたけれど、一向に返事がきそうになかったことから、きっと無視されたのだろうと、そのうち彼女のことも忘れてしまっていた。
ところが、ある日、彼女から返信が届いていた。長く留守にしていてこちらが出した手紙のことを知らなかったらしい。彼女からの手紙には電話番号が書かれていた。
君がいたから、
8月 28, 2006
学生の頃。
とは言っても、すでに大学生になって、そろそろ成人式かなという頃、知り合ったクラスメートの話。
大学は高校の頃と違って、隣に誰が座っているとか、どんな奴がクラスメートなのか、さっぱり無頓着だった。
大学に入れたことで、目標がなくなってしまったのだろうか。
授業にでても、かろうじて存在感を意識させられたクラスメートぐらいで、落第しないように勉強しなきゃ、と思わなかったし、緊張感がどうしてももてなかった。
ある日、留学生会館だったろうか。
談話室のソファーに、社会に出る前の4年間のバケーションっとかいったタイトルで、日本の大学生活が英語で紹介されていた雑誌がころがっていた。
その大学がそうだという意味で紹介されていたわけではなかったけれど、
大学にいくって、一体なんだったんだろうと思ってしまった。
幸か不幸か、ロングバケーションな大学生活にはならなかった。
そのきっかけのひとつが、彼との出会いだった。
無頓着で、クラスメートに誰がいるとか、クラスメートの誰は何しているなんか、さっぱり気にかけることなく、過ごしていた。隣がどんな奴かにあまり興味もなかったけれど、たぶんなんてことないきっかけで、バイトしていた先の用事で週のうち3日ほど通うことのあった街の雑誌社に勤めていることをしった。仮に、島内(しまうち)としておこう。
島内が勤める雑誌社はよほどひまだったのか、こちらがたずねる度に午後まで時間の空いたこちらのひまにつきあってくれていた。
ついでに、どのくらい暇ができたかを書いておくと、お昼食べて、映画一本みて、それでもしばらくほっつきあるいていられるぐらいの暇がある時がほとんどだった。
そのアルバイトをはじめて、島内がいる街で片付けなければいけない用事がどんな内容かを把握するにしたがって、徒歩では時間の間に合わない場合があると職場の人たちを説得し、自転車を購入。間に合わないというリスクは回避でき、おつりとして待ち時間が以前よりも長いものになった。
島内と、週に1,2度彼のバイト先の地下にあった喫茶店で世間話をしていたと思う。
ただし、どんな話をしていたのかは、実はよく覚えていない。授業のこととか話していたのだろうか。
そんなある時、こちらが日本の外へ冒険にでかけるという話をしたことがあった。
すると、島内が、南の方へいくのだったら、是非伊東に会えばといってきた。
「伊東?」って誰だ?
「誰って。おれたちのクラスメートじゃないか。忘れたのか?」
「忘れたとかじゃなくて、知らない。そんな奴」
島内と週1・2二度会っていると、彼もこちらがちゃんと授業にでているかのような錯覚にあったようで、実はこちらがあまり学校へ行っていないというのにはじめて気づいたようだ。
そして、島内にメモしてもらった幻のクラスメート、伊東をたずねて南のそのメモされた住所をたずねてみた。
その住所にとどりついて、ブザー(チャイムだったかな)を押してしばらく待つと、なんかすげーお姉さんがでてきた。伊東ってこんなお姉さんが住んでいるところに下宿しているのか。なんて思いながら、伊東が不在なことを聞き、もうしばらくして、伊東が戻ってきそうな時間に出直してくるといって、その家を去った。
2度目に伊東の下宿を訪ねたときは、ちゃんと伊東がいた。
まるっきり、初対面とも言えるような挨拶で、互いに「お前が幻のクラスメートか」と言い合って、大笑いした。
伊東は日本を離れてすでに数ヶ月経っていたので、こちらよりも土地の言葉に慣れていた。その彼の案内で、確か1週間ほど、彼の友人たちに紹介してもらったり、その友人たちの家に招待してもらったり、うん、これって日本じゃないんだよなっていう経験をすることができた。
その一週間、彼の友人たちとも楽しく過ごしたけれど、こちらも前年知り合いになった友人の家に泊めてもらうことになった。一日中、伊東や友人たちとほっつき歩いていたので、夜ベッドを借りただけの家だったけれど、彼氏と喧嘩中だった17歳の妹さんや、野心旺盛のそのお兄さんやら、へんてこな家庭環境などを知ったのは、寝泊りはじめてから。さすがに、なんだか居ずらいといってホテルへ引っ越すには、これまた微妙な空気があったりして、結局1週間がんばってしまった。
そんなあっと言う間の一週間が過ぎて、伊東ともわかれ、帰国した。
伊東も数ヶ月すると、日本に戻ってきた。
その後、日本に戻った伊東の異国の友人たちのことを共通の話題として話せることができたのが他にいないとかも理由だったのだろうけれど、伊東とバカやったり、一緒に友達付き合いすることが多くなった。
そうしてまた時は過ぎて、またあの土地へやってくる機会に恵まれた。
本来なら、またやってくることができたこの機会に感謝し、その機会をより幸せな時間として過ごせるように努力すべきだった。実際に、努力はしたし、結果も予想以上のものを得ることができたり、決して無駄ではなかった。
ただ、ひとりぼっちで異国でいると、日本にいると絶対考えないだろうと思うようなことを考え、そして実行してしまう時もあったりする。
ここまで書いて、なぜこんなこと書いているんだろうか、と。
つぶやきがつぶやきでなくなったら、おしまいかな。
孝行
8月 26, 2006
ドラマになって、たくさんの人たちの涙をさそったお話を過去
いくつかみたことがある。
たしかに、いかに観衆の涙を誘うかが目的のひとつでもある
ことから、目頭を熱くするシーンはある。
ところが、感動の仕方っていつも一様ではなかった。
ほとんどフィクションというドラマの場合は、うまくできた話だとか
悲しい話だね、でおしまい。
ところが、実話や、こちらが見聞きした実話と近い内容やタッチを
もったフィクションというのは、ドラマとしてできている部分に反応する
部分と、こちらの身近な話と接点があまりに生々しくて、
涙をそそうというだけでなくなってしまう。
目頭が熱くなるっていう涙じゃなくて、心の中でぽっかりと、なんだろう。
誰かのの死を知るということを、全然知らない人の死と、親友あるいはその
家族、あるいは自分の家族の誰かという場合をそれぞれ考えてみるといい。
みたこともない、聞いたこともなかった、ましてやあったこともない人が亡くなった
というニュースをみても、それだけで泣いたりする人はいないだろう。
親友、家族といった近い関係にある誰かが亡くなった場合というのは、泣いて
その悲しみを追悼する、それでも ほころびが繕えないような気持に溺れてしまって
いるような、そんな心になる。
いつか親孝行したいと思っていた彼の思いは、結局叶うことなく、しかも最後の
別れさえ告げることできずに親を失ってしまった。
生まれてしばらくして大病に見舞われた幼子だった彼を、なりふりかまわず守り
救おうとした親の姿が、年端のいかない彼のおさない記憶に残っているらしい。
大病は難病と診断され、同じ病気だった同じ病室の友達たちの数は、いつしか
減っていった。
彼も、もうダメだろうという瞬間があったらしいが、小学校に入学、そして中学へと
進学。
中学に入ってしばらくして、病院でいつまでの命かも知れないと幼い頃に
告知されたことを思い出させるような瞬間が幾度かあったらしい。
そうしたビクッとする瞬間を乗り越える度に、このまま人生をつつがなく過ごせる
んじゃないだろうかと思うようになったらしい。
結局、高校から大学、就職というように、誰もが当然すすめる道以上の半生を
過ごすことができたようだった。そして、最後のお別れを告げる機会もなく親を
亡くしたらしい。
そのうち小さい頃迷惑や心配をかけた分以上に親孝行したいと思っていた
のに、結局何もできず、親を失ったという格好になってしまったようだ。
それから、何年か過ぎ、何も親孝行できなかった親に対して、なんてオレって
親不孝な奴なんだと自分を責めていた彼だけれど、
彼の子供が思春期にさしかかっている。
自身を慰めるためではないらしいが、親として
子供にしてもらいたい孝行とはなんだろう、を考えたらしい。
こどもに望むことが叶うこと。
苦労してもいい、でも、精一杯生きることができたと悔いを残さない
人生を歩んでくれることが、一番の孝行だろうか。
そう思ったあと、彼の親もそう思ったのだろうかと。
身勝手で、我侭で、苦労の種にしかならなかった。
何も親孝行できなくて、
ほんと、ごめん、
思いたいことと、思うこととは、まとめられそうでまとまらないものらしい。
軌道修正
8月 26, 2006
ここにブログつくろうと思った動機は、実は高尚なものなどではもちろんなく、 あるいは程度の低い意識から数だけ増やせばブログというわけでもない。 つくった瞬間は、幕末の頃のことについてちょっと書けるといいかなぁ と思い、カテゴリーにも幕末というのをおいた。 司馬遼太郎をはじめ、数々の歴史小説を読むにはことかかないけれど、 最近 幕末という時代が日本にとって何だったのかを考えようと思ったりした。 幕末に限らず、戦国時代、日本以外の土地の歴史に登場する人物を みると、ヒーローと言われるほどの存在ほど、結局誰にとっての ヒーローだったというよりも、何のためのヒーローだったのかと問うてしまう 結末が多いように思った。 所詮、時には強く、時には心持ち加減に、時代の駆動に関与していった ただそれだけのものなのだろう。 たかが、歴史の数行に登場するだけかも知れないけれど、 歴史の進路をも変えてしまうエネルギーを、あるときにはプラスに またあるときにはマイナスに作用しながらも、発したものだな。 歴史上の駒ひとこまや瞬間に光りをどれほど帯びた存在かは さておいたことを書くことに変更。
つい、
8月 22, 2006
アカウント作ってしまった。
やっぱり、ブログは WordPressが使いやすくていい。