いつか父となる子へ捧げる言葉 (2)
9月 2, 2006
だんだんというか、まったくフィクションな方向を向いてしまったから、これって本当に、いつか父になるこどもへ伝いたい言葉なのってふうに話がずれまくりだ。
話がフィクションであってもなくても、もしかして彼らがこのブログが読めるようなことがあれば、あぁ、オヤジってこんなこと書いていたりしたんだと思いながら、俺らのオヤジってどんな人なのかを知ってくれれば、それでいいのだから。
高校の時だっただろうか、父親になったとしたらどんな風に自分のこどものことをみるんだろうかを想像したのは、
杉田二郎の、 ANAK 息子
という曲を聴いた時だったかな。
それを聴いたよなぁという記憶ばかりが強くて、どんな歌だったのかは覚えていない。
喜怒哀楽と恋愛感情って違うものなんだろうか?
好きだ、愛しているという瞬間って怒った、笑ったふうな延長だったりなんて考えると、いけないだろうか。
初恋というか、はじめて誰かのことをいてもたってもいられなくなる衝動に包まれたときというのは、人生で最初の不思議な瞬間でもあり、純なハプニングであったりもする。
甘美な出来事で終わることもあれば、苦々しい思い出に終わることもあるだろう。
ある日突然、誰かにほのかな想いが芽生えるというのは、計画的に起こる出来事でもなく、誰かの作為によって生じるものでないから、そう、突然起きるハプニングだと思える。
どんな初恋をするのか、その初恋で何を思い、悩み、学ぶのか。
恋をするとか、恋を想うとか、赤ちゃんがはいはいを覚えるようにはいかないようで、ひとの成長の中で避けては通れない分岐路であったり、人が学習するものの中ではウルトラCなワザを覚えるようなものなのかな。
ところが、ひとって器用なひともいれば不器用だったりもするから、できそうでできずに繰り返すさかあがりがそうだったり、練習もせずにすっとできたり、だったりする。
だけど、そんなふうに似ているようで、ひとりで練習できたり独習できるものではない。
たぶん、勉強、仕事よりももっと大事なものなんじゃないだろうか。
かならずしも、器用な恋ができるひとになって欲しいということではない。
器用というよりも、素直な恋や愛することができるひととして人生を過ごしてもらいたい、かな。
あーなって欲しい、こうなって欲しいと勝手にこちらが望んでみても、その望み通りな人生航路、人生劇場となるかどうかは本人次第三割、あと七割は運であったり、友情であったり、家族やまわりといった本人以外のことに依存・左右される。
だからといって、どうせ努力しても、がんばっても、よかった・わるかったのいずれになるかの確率はたった三割だからと最初から諦めたら、勝てる勝負も勝てなくなる。
まずは、ひとりだけが三割だからじゃなくて、みんなも三割だと分かれば、どちらに転んでいこうと、軌道修正できるはず。
本人の意思と努力が結果に及ぼす可能性が三割という具合な三割。ついていないことが続くと、ばかばかしくてやってられないと思いたくなるだろうけれど、いつまでもそうでないだろうというのは、そう続くかどうかもラッキーであって欲しい期待と結果の打率が三割なように、アンラッキーな打率も三割だろうから。
ひとよりも、少しでも余分に何かをつかもうとすると、つかもうとする分だけの努力が必要になるんだろうな。
得した気がするほどには栄養になってくれない努力というビタミン。どれだけ努力しても回数ごとの摂取必要量に上限があるからなのか、まとめて努力しても効果がないようにみえたりする。
何のため、どんな努力?
っていうのが簡単なようで、一番難しく、大変なパートのようだ。
ちょっと話がちんぷんかんぷんになってしまっているけれど、
喜怒哀楽での自然なリアクションごとく、恋愛も自然なリアクションがどこかで、淀むことなく互いに波打ち続けることができれば、たぶん何事もなく平穏無事な時間の経過として一生が流れていくのだろう。
そうできるのが、ベストだよっていうわけでもないけれど。。。