心のバグ
11月 12, 2006
こどもの頃に培われる感受性は、学校の教科書にみるお手本同様に、おとなの社会に入り込んだ時には正論でありながらも強く生きていくためには直接には役に立たないというものなのだろうか。
こどもに小言を言う時、通り一遍なことばで言動をいなそうとする時、彼らに語りかける一言二言はそもそもどのように受け取られているのだろうかと、言ったあと考えてしまうことがある。
理想郷を夢見ることがないこともないけれど、冷めた思考でその理想郷をながめると、結局は現実のいくつかある嫌な状況や敬遠したい事態を単に避けているだけだったりもする。
すべてが丸くおさまった社会なんて、実は現実にはありえない、もしくはあってはならないものなのかも知れない。
ほかの動物や生き物を制する力をもっているとは言え、所詮ひともそのひとつに過ぎない。
それでも、自然に逆らって理想郷を夢見るなら、結局はひとでなくなってしまい、例えば感情も感動もないロボットやアンドロイドにでもなるしかないのだろう。
現実に起り難いからこそ、実現のために努力や工夫を凝らしながら少しでも夢見る世界や身の回りを築こうとする意志があるから、ほかの生き物がもたない力が存在意義をもつように考えたりもする。
そうした意志がつなぎあわさった連鎖が本来ひとの社会を、時としてぶつかり衝突させたり、ぎゅっと連帯した強さを発揮したりしながら、ひと独特の社会を体現しているのだろう。
最近ニュースなどでとりあげられる翳った心が犯す、本来無為な心のバグとも思える不自然な社会現象。
加害者か被害者か、いったいどっちがどっちなのだと万華鏡の中に閉じ込められたような一角がまるでブラックホールのように思えたりもする。心の中にブラックホールが巣食ってしまったのだろうか。
不必要に追い詰める行動は決して自然の理にかないはしないけれど、だからと言ってそうした行動を魔女狩りのような行動にもちあげることも結局は、どこかの時点でチャラにしなければいけない事態へと押しやってしまう気がしないでもない。
いまあるひとの社会では、浄化することが不可能な現象なのだろうか。
江戸時代は、経済の破綻がその終焉へとつながったと考えた時、いまの時代は心の破綻が時代の終りを告げる警鐘なのだろうか。
願わくは、こらえられなくなって何かの形で社会に衝撃が加わる形ではなく、プラスな創造によってバグってしまっているひと社会の傷が治癒されるといいのだけれど。